小菅カルチャー


(建築中)

◆かつしか小菅音頭

 ※山梨県の小菅村にも同じ名称で全く別の歌があるようです。

 (後日、楽譜と生の録音をご紹介する予定)

小菅殿(“こすげどん”)とキャラクター

◆フレンズ小菅(地域コーラス部)

◆ふるさと祭

◆敬老会

◆合歓の会(踊り)

◆ぶらり町散歩

◆第九を歌おう会(仮称)

 第一回が昨年2016年12月11日(日)に行われました。

 まだ、正式な結成ではありません。

 コーラス部と地域の勇士の方との「みんなで歌う会」です。

◆スズメの会

他・・・。

※他にまだあると思われますが、現時点でわかるところまででお許し下さい。m(_ _)m(コスゲ・マスタ)

 


小菅殿(どん)

 小菅殿(こすげどん)

 国立国会図書館所蔵の『小菅社倉全図』を見ると、その中央やや南よりの構内に『小菅トノ藪』と読める丸く囲まれた場所がある。
 これは『新編武蔵風土記稿』小菅村御殿跡の項に「塚 塚上に槐の古木あり此木の窟に大蛇住せしを小菅殿と称せし由、今も其名を追て此塚を小菅殿と唱う」と記述された塚のことであろうと推察する。
 この小菅殿(こすげどん)という大蛇の話は小菅の代表的な民話で、昔から土地の人に語り伝えられている。

 

 昔、小菅に大きな槐(えんじゅ)の木の茂る塚がありました。この木の洞にいつの頃か一匹の大きな蛇が住み着くようになりました。最初は誰も気味悪がって近づこうとはしませんでしたが、この蛇、とても気のいい蛇で、なんとか村人たちと仲良しにないたいと思っていました。稲田を荒らす鼠の大群を退治したり、盗人を捕まえたりしてだんだんと親しまれていくようになり、そのうちこの蛇は村人から「小菅どん」と呼ばれるようになりました。小菅どんとは、小菅の主、小菅の守り神、小菅でえ一番強いもの、といったほどの意味でありましょう。 綾瀬川に沿った小菅は、美しい田園に囲まれた村です。ところが時折襲ってくる水害はそんな風景を一変してしまいます。
 ある夏のはじめのことでした。大雨が七日七夜も降り続き、堤防は切れ、小菅村はあっというまもなく濁水の底に沈んでしまいました。
 人の命も危うくなり、村人たちはいつしか小菅どんの住む槐の木の塚に集ってきました。刻々と増してくる水嵩に人々は恐怖のどん底に陥りました。
 濁流を越える橋があれば、橋を渡って千住へ逃げれば助かるのに、みんなそう考えましたが、すでに橋は流され、人々に命は今まさに濁水の中に消えようとしていました。
 その時、意を決して小菅どんは激流の中に自らの身をおどらせました。なんべんもなんべんも押し流されそうになっても必死になって千住の小高い太郎山に泳ぎ着くことができました。
 目の前に現れた橋に人々は夢ではないかと喜びました。そして先を争ってその橋を渡りはじめました。一人、二人、三人、・・・・・・九十九人、そして、これが最後という一人が無事に渡り終わったとき、また、どっと勢いを増した濁流に、とうとう力尽きた小菅どんの体は八つに折れて水の中に消えてしまいました。村中だれ一人、泣かないものはいなかったそうな。
 村の人の流した涙は、七日七夜降り続いた雨にも負けなかったそうな。
 平和の日々が戻った小菅の槐の木の下には村と村人を救った小菅どんの大きなうろこは一枚だけ残されていました。村人はこれを大事に祠にまつり、いつまでも小菅どんを偲ぶよすがとしておりましたが、この小菅どんをまつった塚までも、
いつのまにか「小菅どん」と呼ばれるようになりました。

 

 古塚の槐(ほこら)に棲むおろち

   橋に化しを

   今に伝ふる 

 

       (坂本凱二)


 この伝説の小菅どんという塚がどこにあったかということが昔から論議になっていたが、『小菅社倉全図』の記載によってようやく決着した。小菅刑務所の建設でこの塚も取り壊されてしまったということであるが、槐の木は今も構内に何本かが残されているという。

出典:葛飾区古文書史料集六 小菅籾蔵関係文書 葛飾区郷土と天文の博物館