小菅ランドマーク
(小菅1丁目)
(建築中)
【生活環境】
①掲示板(確認中)
②ごみ集積所(確認中)
③公園
a 区立松原公園(小菅1-27)
b 区立西児童遊園(通称:ラッコ公園、小菅1-8)
c 小菅西公園(水再生センター屋上、小菅1-3)
d 同 フットサル場(同上)
④銭湯
・草津湯(小菅1-17-3)
⑤集会所
・西小菅集会所(小菅1-11)
⑥有料駐車場
・新水戸橋下(4台)
⑦病院
・津久井整骨院(小菅1-19-3)
⑧その他交流場所
・水門クラブ(小菅1-27?、旧水門官舎跡)
2017(平成29)年2月17日現在
③-c 小菅西公園
③-d 小菅西公園 フットサル場
④草津湯
【名所・旧跡】
①水戸橋通り(旧水戸佐倉街道)
②小菅の「へそ」 ・・・小菅1-15-16、現場を見ましたが、よく分かりませんでした。
③松原通り(御成道)
④小菅稲荷神社 ・・・小菅1-28-11
⑤鷹の入り ・・・小菅1-22-5辺り、写真準備中
⑥東洋館・コメディ劇場 ・・・小菅1-19-7辺り
⑦小菅銭座 ・・・小菅1-25、西小菅小学校
⑧関東代官所小菅陣屋跡 ・・・小菅1-20-17辺り、写真準備中
⑨八幡宮(八幡社) ・・・小菅1-19-11辺り
⑩半増坊 ・・・小菅1-19-14、写真準備中
⑪水戸橋
⑫綾瀬川 ・・・写真準備中
⑬もみ蔵跡 ・・・小菅1-36、写真準備中
⑭小菅御殿(東京拘置所) ・・・小菅1-35、写真準備中
⑮古隅田川と日除土手 ・・・小菅1-11辺り、現場を見ましたが、よく分かりませんでした。
⑯日本最初の公立学校、正覚寺とげぬき地蔵・身代り地蔵 ・・・小菅1-3
⑰荒川放水路
⑱小菅殿(こすげどん)塚跡 ・・・小菅1-35、セブン公園北西
①水戸橋通り(旧水戸佐倉街道)
小菅の町を東西に走る水戸橋通りは、江戸時代には五街道のひとつ日光街道に付随する街道として道中奉行の支配下におかれていました。日光道中千住宿で分岐し、小菅・上千葉を通り、砂原村と亀有村境で葛西用水を越え、ひとつめの宿場である新宿(にいじゅく、現亀有)に至り、中川にある新宿の渡しを渡り水戸道と佐倉道に分かれ、関東を走る主要な街道の一つで、かつては水戸黄門様の歩いた道であり、徳川幕府最後の将軍慶喜公が水戸へ向かった道でもあります。その先も陸前浜街道として仙台まで続いていました。また、成田山信仰・帝釈天・木下川薬師・半田稲荷等々の社寺への参詣の道としての機能も持つようになりました。
②小菅の“へそ”
松原通りの清水信也さんの家(小菅1-15-16)の前に、人間のへそのような石が、ひょんと顔をのぞかせています。この石は一体なんでしょうか?実は、この石は小菅に土地の高さを測るもとになる、大切な石なのです。
正式には、水準基評点といいます。かつて工場で使う地下水をどんどん吸い上げて使用していた時代に、小菅のあたりも地盤沈下がはじまり「ゼロメートル地帯」と呼ばれるようになってしまいました。現在では、水を利用する大工場も都内から出ていき地下水を吸い上げることもあまりなくなり、地盤沈下は止まりました。
③松原通り
関東郡代伊那忠治が小菅村の御用地に構えた屋敷に、度々鷹狩りで立ち寄った二代将軍秀忠は、屋敷の庭から見える富士山に松が似合うと江戸城から、一本の若松を持参し伊奈家の庭に自ら鍬を取って植えました。
しかし、曇り空で富士山が見えません。そこで、植えたばかりの松の枝に手にしていた白扇を広げ、逆さに飾り富士山とみたてました。それ以来、この松を「末広がりの松」と名付け伊奈家の手で大切に育てられました。
この由来と育成を知った八代将軍吉宗から褒美に銀五十枚を賜った伊那忠達は、水戸街道から小菅御殿まで数百本の松を植え、立派な道を作りました。それ以来、将軍権が御成りになる時は、必ずこの松並木を通り「末広がりの松」を見ながら御殿に入るのが慣わしとなりました。
この松並木は昭和の時代まで残りましたが、太平洋戦争になり「松根油」を飛行機の燃料にするため、ほとんどが切り倒され、今では「松原通り」の名前だけが残りました。
「戦争」は全てのものを破壊してしまいます。平和が大事です。将来は松を植え直したいものですね。「平和」の意義を込めて・・・。
⑰荒川放水路
西に流れる大河「荒川(放水路)」は、人工的に造られた川で、高い土手があります。
明治43年に大洪水があり、東京都内・下町を水害から守るため20年をかけて完成しました。
東京、埼玉の上流で大雨・増水があった時は、分岐の北区赤羽にある「岩淵水門」で隅田川への水量調整を行い、大洪水を回避するようです。
【神社仏閣】
①小菅稲荷神社 ・・・小菅1-28-11
②八幡宮(八幡社) ・・・小菅1-19-11
③半増坊 ・・・小菅1-19-14
④真言宗正覚寺 ・・・小菅1-3
⑤小菅神社 ・・・小菅3-1